フェリーニのアマルコルド
『8 1/2』に続き、調子に乗ってもひとつ観たのたが、これはまた全然違う映画であった。
『8 1/2』(1963年)からちょうど10年後の1973年公開なので、映画もモノクロからカラーになっていたが、『8 1/2』のスタリッシュというか尖った映像とはちょっとかけ離れたぼんやりした画面という印象。色合いが素敵というわけでもないし、何よりあの手品のような見せ方がほとんどなかった。
しかし。
今作は映っている人たちがメッチャクッチャ濃い!濃すぎ!
例えて言えば、マツコ・デラックス、どんだけ〜の人、ムロツヨシ、片桐仁みたいな人たちばっかり集めたようなキャスティング(全然例えられてない気もする)。マストロヤンニはおろか、カルディナーレもエーメもいない(ディヴァインみたいな人はいる)。
名もなき市井の人たち、それもとびきりキッタナイおっさん、ソバカス少女、すぐキレるマリオ顔の父ちゃん、馬鹿ばっかりのクソガキたち、胡散臭い司教、ファシスト、たばこ屋のディヴァインw、まだまだてんこ盛り。この街一番の美人とされているのはソフィア・ローレンの出来そこないみたいなおばちゃんだし。
そんな人たちが住む街に春の気配が訪れるところから話は始まる。よくわからないが、この街では綿毛が飛び始めると春が来るらしい。
前述した濃い人たちの日常のエピソードが脈絡あるのかないのかよくわからないまま、淡々と盛り上がりそうで盛り上がらず、何かが起こりそうで起こらない。ドラマチック要素があるようで無い。いや、ドラマチックにわざと描いてないのだろう。なのでどーしても退屈に感じちゃうんだけど、ギリギリのとこでまたエピソードが唐突変わるので、いつの間にか時間が過ぎて、気がつくとこの街の人たちの、というか誰にもある(あった)何気ない日常を追体験させられてしまったような感覚になる。
夏が来て、秋になりまた冬が来て、冒頭の綿毛がまたもや舞い、この街の人々の1年間が過ぎていく。 見終わると、あのどうしようもなく濃い人たちのどうしようもないエピソードが愛おしくなっているから不思議。
こういう構造の映画って他にもあったような気がするけど思い出せない。強いてあげるとすればリチャード・リンクレイターの『ビフォア・サンライズ』を観たときみたいな感覚かな。
好みで言うとあまり好きではないし、もう一度観ようとは思わないけど、頭や心の中を素通りするような映画ではないのは確か。
そんな感想でした。
ーーーーー